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佳人

ジャンル
小説
作者
石川 淳

わたしは……ある老女のことから書きはじめるつもりでいたのだが、いざとなると老女の姿が前面に浮んで来る代りに、わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がするのは一応わたしが自分のことではちきれそうになっているからだと思われもするけれど、じつは第一行から意志の押しがきかないほどおよそ意志などのない混乱におちいっている証拠かも知れないし、あるいは単に事物を正確にあらわそうとする努力をよくしえないほど懶惰(らんだ)なのだということかも知れない。

作者情報

 画像

日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。
本名:淳(きよし)。
東京府浅草区生まれ。

無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。

祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。
東京外国語学校仏語科卒。

『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。

寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。

和漢洋にわたる博識を発揮し、評論・エッセイにも佳品を残した。