流し読む冒頭
流し読み(ながしよみ)とは集中して読むのではなく、力を抜いて軽く読むさま。読み流すさま。
機械
初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。
舞姫
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈(シネツトウ)の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
夜明け前
木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(ソバ)づたいに行く崖の道でり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
平凡
私は今年三十九になる。人世五十が通相場なら、まだ今日明日穴へ入ろうとも思わぬが、しかし未来は長いようでも短いものだ。過去って了えば実に呆気ない。まだまだと云ってる中にいつしか此世の隙が明いて、もうおさらばという時節が来る。其時になって幾ら足掻いたって藻掻いたって追付かない。覚悟をするなら今の中だ。
紫式部日記
秋のけはひ入り立つままに、土御門殿(ツチミカドデン)のありさま、いはむかたなくをかし。
源氏物語
いづれのおほん時にか、女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなききはにはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。
武蔵野
「武蔵野の俤(オモカゲ)は今わずかに入間郡の残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。
更級日記
あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめける事にか、世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、つれづれなる昼間・宵居(ヨイヰ)などに、姉・まま母などやうの人々の、その物語・かの物語・光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。
老人と海
かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮べ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日もつづいた。
竹取物語
今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、万の事に使ひけり。名をばさぬきのみやつことなん言ひける。
檸檬
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか― 酒を飲んだあとに宿酔(フツカヨイ)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。
金閣寺
幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。私の生まれたのは、舞鶴から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志楽である。懇望されて、僧籍に入り、辺鄙な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
仮面の告白
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。
或る女
新橋を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴が、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。
海賊とよばれた男
青い空がどこまでも続いていた。
湧き起こる白い入道雲のはるか上には、真夏の太陽が燃えていた。
見上げる国岡鐡造の額に汗が流れ、かけていた眼鏡がずれた。
シャツもべっとりと汗が滲んでいたが、暑さは微塵も感じなかった。
蒲団
小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
文鳥
十月早稲田に移る。伽藍の様な書斎に只一人、片附けた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を飼いなさいと云う。
太宰治情死考
新聞によると、太宰の月収二十万円、毎日カストリ二千円飲み、五十円の借家にすんで、雨漏りを直さず。
永遠の0
あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった。