流し読む冒頭
流し読み(ながしよみ)とは集中して読むのではなく、力を抜いて軽く読むさま。読み流すさま。
いずこへ
私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。
チャタレー夫人の恋人
ぼくらの時代の真実は悲劇的なものなので、ぼくらは悲劇的な捉え方を拒絶する。大変動がおこった。あたりは瓦礫の山となった。ぼくらは新しい小さな住みかを建てはじめ、新しい小さな希望を育みはじめる。かなり困難ないとなみだ。いまは未来へつながる平らな道がない。けれども、障害物のまわりを回るか上を乗りこえてゆく。何度空が落ちてもぼくらは生きなければならない。
こころ
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、そのほうが私にとって自然だからである。
斜陽
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」と幽(カス)かな叫び声をおあげになった。「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
高野聖
「参謀本部編纂の地図をまた繰り開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、あまりの道じゃから、手を触るさえ暑くるしい、旅の法衣(コロモ)の袖をかかげて、表紙を附けた折り本になっているのを引っ張り出した。
武蔵野
「武蔵野の俤(オモカゲ)は今わずかに入間郡の残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。
小さき者へ
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどう映るか、それは想像も出来ない事だ。
黒い雨
この数年来、小畠村の閑間(シズマ)重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。
銀河鉄道の夜
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
檸檬
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか― 酒を飲んだあとに宿酔(フツカヨイ)があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。
卍
先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまいませんですやろか?
セロ弾きのゴーシュ
ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。
奥の細道
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
帰去来
人の世話にばかりなって来ました。これからもおそらくは、そんな事だろう。みんなに大事にされて、そうして、のほほん顔で、生きて来ました。これからも、やっぱり、のほほん顔で生きて行くのかも知れない。そうして、そのかずかずの大恩に報いる事は、おそらく死ぬまで、出来ないのではあるまいか、と思えば流石さすがに少し、つらいのである。
猿面冠者
どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜の男がいた。
走れメロス
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
雁
古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している。
草枕
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
舞姫
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈(シネツトウ)の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
機械
初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。